「日本外史」の作者は頼山陽。幕末明治期の大ベストセラー。幕末維新期における漢詩文の読者のうちで、「日本外史」の文章に触れたことのない人はほとんどいないといえるほど。発行部数は30万とも40万とも言われている。頼山陽は1781年~1832年の人。
先日、県立図書館で「漢文脈と近代日本~もう一つのことばの世界」(齋藤希史 著)なる本を借りた。そこに書いてあった。
「日本外史は、保元・平治の乱による、源氏・平氏の台頭から徳川の天下統一にいたるまで、武門の興亡を記した本。」「君臣の分を重んじる大義名分を、皇室と武門との関係に当て・・・・つまり皇室が君で武門が臣というわけです・・・尊王思想を記述の根幹としたことが、時代の好尚にあった。」
「武士がいかに行動すべきか、その指針を示したものであり。思想の中身もさることながら、歴史を一つの原理、一つの流れでわかりやすく描き出し、規範を示したことが、人々に歓迎された。」
「日本外史は、さまざまな史料や史書を駆使してできあがったもので、その中には和文で書かれたものも少なくなく、また史書というよりも小説に類するものもあったわけですが、山陽はそれを巧みに漢文に直しました。一種の漢作文と言ってもよいでしょう。」
「中村真一郎は『頼山陽とその時代』の中で、思い出をこう記しています。」
「明治初年生まれの私の外祖母は、文字通り無学な田舎の一老媼に過ぎなかった。しかし彼女は、中学生の私が漢文の副読本の『外史鈔』を読み悩んでいる時、台所に立ったままで、私の読みかけた部分をえんえんと暗誦して聞かせてくれた。明治の初めの地方の少女は『日本外史』を暗記することが初等教育であったのだろう。
それは『外史』が全国津々浦々行き渡っていた証拠となると同時に、その文章が暗誦に適した、つまり人間の呼吸に自然に合致した、見事な雄弁調といて成功していることを示しているだろう。近代の口語は、そうしたエロカンスの美において、遂にこの水準まで達した文体を発見していない。」
祖母が暗誦したのは、漢文の訓読で、山陽が作文にあたってお手本にしたのは、「史記」130巻のうち「項羽本紀」。
「私(山陽)はかつてこの一篇を書き写し、読みながら傍点を付したり、段落を区切ったりしたことがある。日本外史を書くようになって、毎朝この篇を朗誦したが、大いに力を得たものだ。」と、述懐している。
頼山陽は30歳の頃、日本外史の草稿を仕上げていたようだが、その後増補を重ね一通りの完成をみたのは、47歳のとき。20年を費やした。
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