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2009年5月31日 (日)

血圧計

健幸プラザという施設にお風呂がある。冬の寒さに銭湯が恋しくなり、来るようになって、常連さんになった。

そこに血圧計が置いてあって、腕を通してスタートボタンを押すだけなので、入浴の度に測っている。脱衣所にあるのは、結果をプリントする機能は無い。そこしかないのかと思っていたら、玄関脇の広いロビー部分にもあった。こちらのはプリント機能付き。

今日、髯も伸びてむさくるしくなっていたので、行った。血圧計に腕を通した。最高血圧139と最低血圧86mmHg。

4日前の17時頃の記録では、152と93。

やや高めというのが、私の血圧。痩せればも少し下がるのだろう。

痩せるで思い出した。ここの脱衣所に体重計があって、いつも計る。来た当初は、目盛りは90kgを越えようとしていた。それがこの1ヶ月には85kgを越えなくなった。嬉しいー。

ただこの秤、測る者の足の位置の加減で、表示が変わるので、自分の結果に自信がない。

家にある体脂肪や内臓脂肪も測る機器で計測すると、89kgはあった。がっかり・・・・だった。

2009年5月30日 (土)

夏だ

朝の陽射し。眩しい。夏到来を思わせる。昼過ぎの空。白い大きな塊が、あっちこっちに浮かんでいる。夏の空だ。

夕方、からからに乾いたプランターに水をやる。30分はかかる。じとっと出る汗。夏の暑さへの心構えか・・・。でも、風はまだ爽やかだ。

買物に行ってトイレに寄った。ボランティアで一緒になったTさんとばったり。24日の閉会式の後に会場を散策していたときにも、出くわした。探究心旺盛な親父さんで、野菜づくりに花栽培、船を操り海釣に、車の整備もまかしとけ・・・の働き者の方。近々、2つのグループから頼まれて、船をだすそうな。「お互い知らんから、2回行ったほうが気を使わんでええじゃろう・・」の気配り。

ボランティアで動いたおかげで、新たなつながりもできた。やっぱり、動かなきゃ・・・。

2009年5月29日 (金)

50周年・・・

30歳の頃、企業や団体のの50年史、60年史の本の制作に携わったことがある。その頃は、自分の人生より以前のことを調べ、まとめていくことが、年史物の仕事であった。

いま、「50周年・・・」などの活字を目にするとき、自分の人生の範囲内じゃないか・・・ということを思い知ると、なにかガクッとする。

「何周年」なるものが自分にあるかと考えると・・・詩吟だけか。祖父の詩吟が世に知られてから70年余り、「西大寺詩吟同好会」からいうと53年。私が祖父の講座に正式に入った時からいうと、33年。続けるのなら、もっとレベルを上げるべしだ。

先日、山陽新聞が金婚式の集いをしていた。天皇、皇后様も50周年だった。私は23年で途切れた。途切れなければ、37年だ。

ずーと前、80歳過ぎのご婦人が、信仰心の厚い大変気丈な方が言われたことを思い出す。「自分と同じ歳の人を見て、あーー私もあんな様子なのか・・・とショックだった。」日々の生活を振り返ると、60歳以上の人達としか付き合っていない。緑化フェアのボランティアの間は、20歳代の若者とも交流があった。

毎朝見ている「一日一言」に、「子供の教育」について「師を選び、友を選び、土地を選べ」とあった。「老いて衰えないために」、この戒めは子供だけのものではないな・・・。

2009年5月28日 (木)

ゴスペルと津軽三味線

岡山学芸館高校の芸能鑑賞会の授業が、シンフォニーホールで、27日にあった。同校の職員の方からご案内を戴いて、行った。

「津軽三味線 ゴスペル コラボレーション」で、出演は「澤田勝司」と「EVERYTHING GET TO BE GOOD」。

ゴスペルはピアノと4人、三味線は1人。舞台は照明の演出だけ。シンプルで4人のハーモニーの心地よさが残った。津軽三味線のリズム豊かな哀愁は期待に違わず、エレキにチューンアップした音は、三味線であることを疑わせた。

1階は生徒たち、2階を保護者と招待者に開放された。ゴスペルにのって会場が手拍子に溢れ、舞台に引き上げられた生徒がゴスペルの一声を、上手くこなし、三味線では4人がリズムにのって伴奏し、とても楽しい鑑賞会であった。

私立高校が、生徒の可能性を引き出し、成長させることができることに優れている面が垣間見られた気がした。隣接する、わが母校である県立高校の状況と比べ、どんな違いがあるのだろうか、気になるところだ。

このところ仕入れたことで、「立命」とか「知命」ということがある。この世に生まれたからには、自分は何ができるのか、自分の能力は何か・・・をまず知りたい。

「この世に生まれし人々は 天に受けたる 務めあり 各々務めは違えども 己の務めは果たすべし」「人の命となるものは 務めを果たす吾にあり その吾なくばその命 さて何というべきか」

高校卒業間近の頃、友人からもらった「生きがいの探求」という本を読んだ頃に、書いた詩?。今も忘れず出てくる。その後の実際の40余年は、この気概の通りにはなっていないのが口惜しいところだが、それはまた、今後に期待しよう。

2009年5月26日 (火)

花緑ボランティアOB会?

25日、12人がOさんの山荘に集まった。ここは30年ほど前に来たことがある。祖父の詩吟の会で20名余り。夜の会合で、雨が降ったように思う。タクシーを利用したが、道が狭く暗いのしか憶えていない。

10年ほど前から、荒れていた山荘の周りを整備して、庭作りに邁進して、TVの取材を受けるまでになったそうだ。枕木で作ったデッキがあり、芥子山山頂からの眺めとは違った西大寺の街や吉井川の風景が新鮮だった。

男性5名、女性7名が集まり、緑化フェアでの活動振りを話し合った。そして、このつながりを活かして、何かしていこうと一致。今回連絡できなかった人たちにも呼びかけることとなった。Oさんからの今朝の電話によると、前回開催地の群馬ではOB会が組織され活動をしているそうだ。

いま思うのは、来年4月にオープンとされる、フェア会場跡の公園(西大寺南公園か)が、開放されるとき、花で飾るのはどうだろう。広く賛同者を募り、プランターなどで各自で育てた花を持ち寄り、公園中に飾る。それを毎年の行事とする。

2009年5月23日 (土)

毛ガニ

3週間ほど前か、電話に出ると、朴訥そうな声で「函館の・・・・です。もしよかったら毛ガニと帆立貝があるんです。蟹は冷凍ではなく、捕れたてをボイルしたもの・・・・」というセールスの電話だった。FAXを頼むと、翌日送られてきた。「お話を聞いていただき・・・」とあった。ホームページがあったので見ると、北海道で手広く商売をされているらしかった。

母親に言うと、注文しようということで、メールで注文した。私不在のときに連絡があり、この土曜日に来るとのこと。土曜日になったが来ない。日曜も来ない。月曜も来ない。何の連絡も無い。いいかげんな会社だなぁ・・で忘れていた今日の土曜日、来た。母親の勘違い。

晩飯は、毛ガニと帆立貝。ハサミで足を切り、爪に切れ目を入れ、胴体を二分し、ホタテは説明書を見てナイフで切り、レンジで温め・・・・・美味い。

やはり、カニを食べるのは、疲れる。そして、想像通り、カニを食べている間は、「静か」だった。

今日の4時過ぎにフェア会場に行ったら、随分と人がいた。人の思いは似たところがある。名残惜しむ人の思いか。明日はいよいよ最終日。緑化フェア66日目。

2009年5月21日 (木)

図書館で 居眠りをして 百円払い

「日本外史」を見たいと思って、県立図書館へ。県庁の前を右折するとき、ガラス張りの内側はブラインド。「あれっ?」駐車場が見えてくると車がいない。出口のところに「休館日」の看板があった。

「どうしよう・・」信号待ちで考えて、市立図書館に寄ることにして、旭川沿いの道へ。市立中央図書館は久しぶりの訪問。11時前だから駐車場はガラガラ。入って、パソコンで検索。「書名:ニホンガイシ」。検索を押したら、「岩波文庫 1982年で上・中・下」が「在庫」。「上」をプリントアウトしてカウンターに行って尋ねると、書庫から出してきてくれた。

開いた机で読み始めたが、期待に反して、「漢文」が無い。全部、読み下し文。思えば、活字が無いか。読み始めたが、それほど読まない内に、眠たくなってきた。知らぬうちに、眠りに落ちていた。ハッと目が覚め、また読み始める。そのうちスーーッと睡魔が襲い、また眠りに落ちる。何度かそれを繰り返し、また来よう・・・と決めた。

駐車場に帰り、車の駐車券を見ると入場時間は1時間40分になっている。規定は「1時間30分」までは「無料」。それを過ぎたら「1時間 100円を支払わなければならない。「うたた寝代だな。」

2009年5月20日 (水)

緑化フェアのボランティア任務完了

フェアはあと4日間だが、私の活動割り当ては今日が最後。

暑かった。スタートした3月20日頃は、まだ寒かったことを思うと、「日本の四季」だ。終わりが来ると、それゆえの寂寥感がある。休憩のとき、「これが終わったら、どこへ行こうか。行くとこが無くなったら困るなぁ」とご婦人たちが話していた。ボランティアで家事も忙しかっただろうし、いくら作業をゆっくりしたとは言え、午後3時を回ると、疲労感が出てくる。そうであっても、フェア会場に来ることは、張り合いがあったのだ。

これからは、岡山市の緑化推進活動の一端を担うことだろう。

2009年5月17日 (日)

朝日新聞の書評で見た「あれっ?」

それは、「美智子 著」という文字。本のタイトルは「橋をかける」だったか?

「美智子」は「皇后様」であった。皇室には苗字は無い。本の内容は、美智子様が子供時代に読書を通して、知らない世界と自分の間に橋がかかっていった・・・というように勝手に理解した。何年か前、インドで開催された読書関係の世界大会で、子供たちに講演されたニュースを記憶している。それを、文春文庫が発行したようだ。

文春文庫はどのようにしてこの本の出版にこぎつけたのだろうか。

2009年5月16日 (土)

春眠暁を覚えず

眠くてたまらん。今日飛ばすと2日連続になる。少しでも書こう。

この3日間、腹筋と背筋を動かしている。背中を動かすと体が軽くなるような気がする。

腹筋は無いと思った方がよい。お腹が出ているのが、カッコ悪いと思うようになった。ほんと、体が思うように動かせないのは、不細工だ。両足を上に上げると、下腹や胃の周辺の肉が下りてくる。叩いてみると、いい音がするような・・・・・・・・。

2009年5月14日 (木)

来場者数が30万人突破

緑化フェアメイン会場の目標人数が30万人。5月12日に30万人目に40代の女性が当ったそうだ。

これまで天気が良かったのと、リピートの人が期待以上に多かったらしい。花は綺麗だ。自分のペースでのんびりと歩けるのがいいのだろう。

先日ボランティアで出動していた日、同級生のFが来ていた。背広スタイルで、「仕事を抜け出して来た。入場券がぎょうさんあるのに、今日が初めて。花が咲いとるのはええなぁ。癒される。仕事に帰りとうねーな」と。

イベントが終わる。また同じような日常が繰り返される。自分の生活の中に、日々積み上がっていくものがあるかどうか。それが共感を呼ぶものならば、自分発のイベントも可能になる。

2009年5月11日 (月)

5年振りの大阪

新幹線は7年振り?大阪駅西口のビックカメラ進出が決まった頃、大阪を離れた。

大阪駅東口の改札を入って7~8段?の階段があったが、それが無くなって、いきなりエスカレーター。決定打が無いまま、漂流してしまった大阪時代。このまま、この街に溶け込めそうな気もする。

45分余りで岡山に着く。倉敷駅で人身事故があったとかで、赤穂線のホームに学生を中心に待ち人が溢れる。15分余り。大多羅駅着。芥子山と色づき始めた麦畑。一日が終わるホッとした空気が漂う。

2009年5月 9日 (土)

石田退三と石田礼助という人

トヨタの営業赤字がまだ続くという記事を見て、石田退・・・なんとかいう名前だったと気になった。「石田退助」と検索して、「石田退三」と気がついた。

そして、「粗にして野だが卑ではない」という本があったな・・と検索したら、それは「石田礼助」氏で、国鉄総裁だった人だ。

このお二人の生年没年を見て驚いた。石田礼助1886年~1978年、石田退三1888年~1979年。同じ時代を生きた。

出身は、石田礼助は静岡県松崎町、石田退三は愛知県知多郡。

学歴は、石田礼助は東京高商(現 一橋大学)で学び、三井物産に就職。石田退三は、父を早くに亡くして丁稚奉公に出るところを、遠戚の小玉一造の支援で、滋賀県立第一中学校に進学。卒業後は代用教員として働く。

石田礼助は、昭和14年三井物産の社長に就任。戦後、公職追放で晴耕雨読の生活。昭和31年に国鉄監査委員長に引っ張り出され、昭和38年には第五代国鉄総裁に。「公職は奉仕するべきもの。総裁報酬は全額返上する」と明言し、国民の支持を得る。昭和43年、辞任。

石田退三は代用教員の後、3社ほど勤め、豊田佐吉と出会い豊田紡織に入る。昭和23年、豊田自動織機の社長に就任、昭和25年に経営の危機に陥ったトヨタ自動車工業の社長を兼務。社長在任中は、「ケチに徹した」それが、トヨタ無借金経営の礎となる。ある時、融資を引き上げようとする住友銀行のやり方に不信感が募り、その後、取引を止めた。それもあってか、内部留保を増やし、トヨタ銀行といわれるまでになった。「トヨタ中興の祖」「トヨタの大番頭」と言われる。

明治生まれの気骨。時代がつくるものか・・・・・。

2009年5月 8日 (金)

長野、山口、岡山が教育県と言われるのは・・・

幕末から明治初期の寺子屋と私塾の数が多かったから。

寺子屋は長野1341、山口1307、岡山1031、私塾は岡山144、長野125、山口106。

私塾の数では、岡山が最多。邑久郡には14もあった。30人から50人の規模が多かった。学科は「漢学」。他には「筆道」「和学」「算衡」「詩文」「算術」「習字」「読書」「文章」など。一私塾でこれらの学科が網羅されているのではない。「漢学」は、全ての塾が教えている。それに1~3学科が加えられている。

19世紀始め頃には普及していたであろう、「漢文の訓読法」によって、多くの人たちが学習することができるようになった。そして、漢学で鍛えられた能力は、英学の吸収も早かった。

「それ、学は通の為に非ざるなり。窮して困しまず、憂いて、意、衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるがためなり。」と、古代中国の哲人・荀子が喝破した。

幕末そして明治期、少年少女らは、何を思って私塾で励んでいたのだろう。いまの少年少女たちよ、なぜ学校にいくのか考えてみよう。

2009年5月 7日 (木)

日本外史がこんな本だったとは・・・

「日本外史」の作者は頼山陽。幕末明治期の大ベストセラー。幕末維新期における漢詩文の読者のうちで、「日本外史」の文章に触れたことのない人はほとんどいないといえるほど。発行部数は30万とも40万とも言われている。頼山陽は1781年~1832年の人。

先日、県立図書館で「漢文脈と近代日本~もう一つのことばの世界」(齋藤希史 著)なる本を借りた。そこに書いてあった。

「日本外史は、保元・平治の乱による、源氏・平氏の台頭から徳川の天下統一にいたるまで、武門の興亡を記した本。」「君臣の分を重んじる大義名分を、皇室と武門との関係に当て・・・・つまり皇室が君で武門が臣というわけです・・・尊王思想を記述の根幹としたことが、時代の好尚にあった。」

「武士がいかに行動すべきか、その指針を示したものであり。思想の中身もさることながら、歴史を一つの原理、一つの流れでわかりやすく描き出し、規範を示したことが、人々に歓迎された。」

「日本外史は、さまざまな史料や史書を駆使してできあがったもので、その中には和文で書かれたものも少なくなく、また史書というよりも小説に類するものもあったわけですが、山陽はそれを巧みに漢文に直しました。一種の漢作文と言ってもよいでしょう。」

「中村真一郎は『頼山陽とその時代』の中で、思い出をこう記しています。」

「明治初年生まれの私の外祖母は、文字通り無学な田舎の一老媼に過ぎなかった。しかし彼女は、中学生の私が漢文の副読本の『外史鈔』を読み悩んでいる時、台所に立ったままで、私の読みかけた部分をえんえんと暗誦して聞かせてくれた。明治の初めの地方の少女は『日本外史』を暗記することが初等教育であったのだろう。

それは『外史』が全国津々浦々行き渡っていた証拠となると同時に、その文章が暗誦に適した、つまり人間の呼吸に自然に合致した、見事な雄弁調といて成功していることを示しているだろう。近代の口語は、そうしたエロカンスの美において、遂にこの水準まで達した文体を発見していない。」

祖母が暗誦したのは、漢文の訓読で、山陽が作文にあたってお手本にしたのは、「史記」130巻のうち「項羽本紀」。

「私(山陽)はかつてこの一篇を書き写し、読みながら傍点を付したり、段落を区切ったりしたことがある。日本外史を書くようになって、毎朝この篇を朗誦したが、大いに力を得たものだ。」と、述懐している。

頼山陽は30歳の頃、日本外史の草稿を仕上げていたようだが、その後増補を重ね一通りの完成をみたのは、47歳のとき。20年を費やした。

2009年5月 5日 (火)

少し濃すぎたか・・・・

炭酸を買ってきて、ウィスキーを飲んだ。いつもよりウィスキーの量が多かったかもしれない。眠い。

以前のバカ飲みから思うと、酒量は激減。これが普通。

一杯人酒を呑み 三杯酒人を呑む

古来、酒を呑むときは注意せよ・・・と言われてきている。

深酒や、深夜まで呑むことを注意すれば、朝起きたときの「胃」は軽い。ほんと、バカみたいに呑んでいる頃が、勿体無い。

2009年5月 4日 (月)

先生6人出席の同窓会だった

Photo 昨日、無事終わった。先生6人生徒57人の出席だった。その中、20人ほどは半年前の中学校の同窓会出席者だ。

前回は6年ほど前。そのときご出席のM先生は、比べると、やや衰えを感じた。N先生は「数えで80になる。これまでは感じたことは無い、衰えを感じる。頭の中が空っぽになったような・・・」と。卓球一路のT先生は、到着時に体調が悪くなり「世話役の顔を見て、帰ろう」と思われたらしいが、思い直してくれて、最後までお付き合いいただいた。我々と10歳違いのO先生、5歳違いのS先生、藤沢市から来ていただいた I 先生・・・40年余りの時間を遡った。

スライドは現在の学校風景、卒業アルバムから各クラス写真や当時の学校風景、芥子山山頂からの眺望、緑化フェア会場風景、同窓会準備作業風景、昭和38~41年の時代描写の雑誌、高校三年生、学生時代、校歌、応援歌など、盛りだくさん?に写した。

男子の顔は皆わかったが、女子は半分ほど。県外から16名人が来られた。

2009年5月 2日 (土)

明日、高校同窓会だ

小冊子にスライドを作った。スライドは中学校同窓会よりも種類もコマ数も多くなった。

卒業写真を映像に取り込んでいると、皆の顔の初々しさを改めて感じた。面差しはいまの原形になっている。自分のを見ると、気取った顔で、ええかげんにせぇーーと言いたい感じ。思えば、殻に閉じこもったところもあって、シャキッとしない高校時代だった。歯切れ悪し。

先日、緑化フェアの花柄摘みの作業で同じ班になったご婦人から、「あの頃はもっとスマートでかっこよかった」と言われた。確かに、高校当時より30kgは増加。明日は40年余りの時間を刻んだ顔が見られるか・・・。

2009年5月 1日 (金)

蚊が出てきた

今日から5月、夕方のヒンヤリした空気はあるけど、寒いという感じは無くなった。窓を閉めた車に乗ると、早く窓を開けて外の空気を入れたいと思う季節になった。

また、汗をかき、太陽のまぶしさに眼を細める時期が来る。夏至の日まで昼はどんどん長くなる。あと1ヶ月半ほどか。四季がある国は世界でどのくらいあるのか。以前、インドネシアのセレベス島(いまは、サウス スラウエシ)に行ったとき、川で水浴びをしているのを見て、「冬は寒いだろうな・・・」と言った人のことを思い出す。その人は3年前に亡くなった。

窓を開け、夜風の涼しさによい気分でいたら、ブーンと飛んでくるやつがいる。そうだ、この季節になるといるんだ。また、蚊取り線香を買ってこなきゃ。

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